休学に至るまでその1 ~広義院死~

こんばんは。おさかなです。

今週は5daysのインターンだったのですが、8:40開始と早かったためなかなか大変でした。
普段は夜型ですがこの期間だけ睡眠時間が19時~23時になってしまったため、昼間は眠くて仕方がなくなり困ったものでした。

さて、自己紹介にも書いた通り休学中の院生です。1月末には研究室の同期(だった人達)が修論発表を済ませてしまい、精神的にきついなってなってるところです。周囲にいる留年経験者は同期が進級・卒業していくこの虚しさと1年戦って過ごしてきたのかと恐れ慄くばかりです。
でも、ただ恐れ慄いているだけではなんにもならないでしょう。そこで得たことや失ったこと、その途中で考えてきた過程を明らかにしてこそ1年間を以降の人生に活かせるはずです。そのためどうして休学に至ったかや、休学してから何を考え何をしていたのかを文章にまとめておきたくなりました。休学するまでの話を5回、休学してからの話を5回の計10回くらいに分けてこれから書いていきたいと思います。
なるべく毎週日曜に更新していきたいと思いますので、良かったら読んでもらえればと思います。研究室生活がつらくなって精神的に煮詰まっている人にとっての救いとなれば幸いです。なお、ほぼ実話ですが一部自身や友人、周囲の人々の特定を避けるため細部をぼかしたり嘘を混ぜたりしているところがあるのでご了承ください。

学部生活

就活の前にまず触れておきたいのは私のこれまでの来歴です。転勤族の子供として生まれ育ち、およそ3年毎に各地を引っ越しつつ東京と田舎を行ったり来たりするという生活をしていました。幼小中高で全部コミュニティが違うので幼馴染とかいう概念もなく、ずっと1つの土地で暮らしてきた人を羨むこともありましたね。

高校では生物や化学が好きで、数学も点数は伸びませんでしたが嫌いではなかったので、理系として東京にある某大学に現役で入学して一人暮らしを始めることになりました。
通っていた大学は2年生までが比較的暇で3年生以降が忙しいということだったので、周囲の人達は語学の勉強に勤しんだりバイトやサークルに熱を上げたりしていました。私は特に熱中することもなく、大学での学習内容も難しかったため何をすれば良いのかわからないといった有様でした。それでもサークル2つに入り、個別指導のバイトをしながらなんとなく過ごしているという感じでした。必修の数学や熱力学は理論を理解できなかったため単位を落として再履していましたが、他の科目は可ばかりながらなんとか単位を取って進級していきました。
2年生の夏に学部学科を決める際にも、食品に関心があったため農学部の中でもそのようなことをやっている学科に進学しました。

進学先の学科ではテニサーや体育会系のいわゆるキラキラウェイが多く馴染めなさを感じました。それでもやはり模試採点や添削、個別指導といったような教育系のバイトでお金を稼いでは旅行に出るといった調子でのんびり過ごしていました。これまた成績はそれ程良くなく、良と可ばかりで優は殆どないといった始末でした。
3年生の頃の学生実験でラットの解剖があったのですがとてもきついと感じました。そのため研究室配属では動物を扱っていなくてキラキラウェイが少なそうな落ち着いた雰囲気の研究室を狙いました。そのような研究室はいくつかあったのでそのうちの1つを選びました。

研究室生活

研究室生活を始めるようになってまず最初に驚いたのが、内部生の少なさです。
別の大学から大学院の修士に入って研究室に所属している方や外部の大学出身のポスドクの方が大体6割くらいだったため、内部生や内部出身者よりも多かったということになります。別に悪意がある人達という訳ではありませんでしたが、気を遣うことも多くなり対人関係に疲れてしまいました。学内サークルをメインに活動していてインカレサークルにそれ程コミットしてなかったのもあり、距離感が掴めていなかったのでしょう。雰囲気も話している内容も3年生までとは異なり、なんとなく居心地の悪さを感じるようになりました。

そんな折に事件は起こります。2015年の5月下旬のある日のことでした。私はマイペースで物覚えが悪い方だったので、研究室内で定められていた共通作業をなかなか覚えられませんでした。それに対して教えていた側の研究室の先輩が苛立ちを感じたようで、怒鳴ってきました。私も負けじと相手にとって刺さる口答えをしたら口論になってしまいました。
この事もあり、人間関係の面倒臭さに辟易して研究を進めるモチベーションがすっかり下がってしまいました。ちなみにその後半年程は件の先輩とは席が隣だったにも関わらず最低限の挨拶以外会話しないという冷戦状態で過ごしていました。

院試休み

そんな怠惰な学生にも将来の進路を決める機会が訪れます。7月の初日から8月末まで丸2ヶ月間の院試休みが与えられました。
もともと私が所属していた学科では3年生までは講義がメインで研究室配属も4年生の4月からと遅く、学生実験では研究室の紹介も兼ねて幅広い内容を薄く進めていくという感じでした。そんな事情もあり、よっぽど学科の内容に興味のない人以外は大体大学院に進学するといったところで進学率は9割程度でした。私もバイオテクノロジーの技術についてもっと理解を深めたいと考えていたため、3年生の頃は院進学を希望していました。
そもそも3年生の6月からインターンという名の就活戦線が始まる都合上、4年生になって研究室生活を始めてから方針転換しても間に合いませんからね。今となってみれば自分自身の頭の回転の遅さを棚に上げて何言ってるんだ感しかありませんが。それでも毎年数人は学部卒として早期から就活を始め外資コンサル、商社、銀行、インフラ大手といったようなところから内定をもらう人もそれなりにいました。彼らはやはり優秀というか、学部3年の夏休みといったような早いうちから自身の研究への適性を見極めて将来を掴み取る要領の良さがあったのだなあと感心してしまいます。

先の事件がきっかけで大学院に進学したいという熱意はだいぶ冷めてはいましたが、それでも就職を希望するとなると留年がほぼ必須となります。工学部は別ですが、生物系の学科の場合は研究室の教授推薦が期待できないためこの時点から内定をもらうのは至難の業です。奨学金が止まるというのもあり留年には躊躇いを感じたことから大学院の入試を受けることにしましたが、どうにも院試勉強に力が入りません。
懲役3年(正確には2年半)の監獄の前に与えられた束の間の休息ということで、個別指導と採点のバイトに勤しみ、稼いだお金で北海道と香港・マカオ、水上、更には香川へと旅行に出てました。今考えればおかしなことですが、当時は研究室生活に対して懲役と表現する程の嫌悪感を持っていました。なんで給料もないのに毎日10-19で人間関係がストレスフルな研究室にいなければならないのか、監獄じゃねえかといった意です。

広義院死

流石に試験2週間前になった頃にこのままでは院試に落ちるのではないかという焦りが生じ始めました。そこで近所のファミレスに毎日10時間以上篭もり、初めの1週間で試験範囲に指定されていた教科書5冊を読み込み、次の1週間で毎日過去問1セットずつ解くようにしました。
その後院試を受けたところ配属最低点は上回りましたが、志望者同士の点数競争に負け研究室を移動することになってしましました。院試に落ちることを(狭義)院死と言うスラングがあるのですが、この場合は院試には落ちてなかったけど配属漏れになったということで、言うなれば広義院死でしょうか。そうして振り分けられた第2志望の研究室が現在在籍している所です。

この結果には流石にショックを受けましたが、件の先輩と離れられるということに少し安心してしまいました。3年間で進める予定だったプロジェクトを頓挫させたということで研究室にとってはえらいとばっちりといったところでしょうがそれはそれ、これはこれ。
私はそこそこの内容で卒業研究を進め、成果は特に出ませんでしたがなんとか卒業させてもらいました。その後研究室を去る際に卒研時代のボスに言われてしまいました。
「まだやりたいことが見つかっていないんだろうなって思う。小さい頃のこととか振り返ってみて夢中になったことを思い出してみたらどうかな」
当時はそのうち見つかるだろうと楽観的に構えていましたが、その言葉をもう少し重く受け止めるべきだったのかも分かりません。

字数も長くなってしまったので今回はここで一区切りとします。
次回は大学院での生活と就活を始めた序盤の話を書いていきたいと思います。

休学に至るまでその2 ~18卒就活~ に続く